井上ひさし 『天保十二年のシェイクスピア』
天保水滸伝の大枠にシェイクスピアの戯曲をパロディーで当てはめて作った、井上ひさしの代表作。沙翁の全37作品に登場人物或いは台詞などの形で触れられており、利根の川風袂に入れて、あれをご覧と指差す方に、佐渡の三世次がリチャード三世の化身として現れる、といった趣向で作られている。歌あり、踊りありで、もちろんシェイクスピアに対するオマージュであるが、この作品は、戯曲に生涯を捧げてきた井上ひさしがどうすればシェイクスピアに追いつき追い越せるかの一つの答とも考えられる。永年の宿題を果たした思いではなかったか。
最初に接したのは蜷川幸雄演出の芝居のDVD。宇崎竜童の音楽は官能的なリフレインに満ちていて、話の展開が小気味よく、舞台装置が幾分グローブ座を意識したようなシアターコクーンでの上演は素敵だった。
江戸末期の関八州を舞台に、頭から尻尾までシェークスピアを通奏低音に、世の中の猥雑混濁欺瞞混沌から人々が、覚悟行動裏切覚醒哀切へと至る様子が描かれている。
「ハムレット」、「マクベス」、「オセロ」、「リア王」をはじめ、「ロミオとジュリエット」、「夏の夜の夢」、「ジュリアス・シーザー」など必ずどの作品も、そのストーリー、登場人物、セリフ、いずれかが本歌取りされているが、「ヴェニスの商人」などは、刀で切られる時のバッサーニオ!という擬音だけ、などとわかる人にはわかる遊びに徹している。
この戯曲のあらすじを記すことは無意味に近い。多くの登場人物が意味深く死に、意味ありげに死に、また意味なく死んでいく。ことばの力をとことん信じた二人の劇作家の言霊への祈りであり、葛藤であり、祝祭でもある。(因みにシェイクスピアの生年1564年・没年1616年は、「ヒトゴロシ-イロイロ」と覚えるそうです。)
いやというほど人が死に、いやというほどオモシロイ。ただそれだけ。冒頭、そして大団円に繰り返される次の文句が気に入ればどうぞお読み下さい、あるいはご覧ください。DVDなら3時間余、ちょっと憂き世をエスケープできます。そして、見終わったらシェイクスピアの作品そのものに興味が湧くはず。私がそうでしたから。今、ちょっと、「沙翁。」がマイブーム。
もしもシェイクスピアがいなかったら 文学博士になりそこなった 英文学者がずいぶん出ただろう
もしもシェイクスピアがいなかったら 全集、出せずに儲けそこない 出版会社はつくづく困ったろう
もしもシェイクスピアがいなかったら 創作劇に貧しく乏しい 新劇界はほとほと弱ったろう
シェイクスピアは米びつ 飯の種 あの方がいるかぎり 飢えはしない
シェイクスピアは米の倉 腹の足 あの方がいるかぎり 死にはしない
シェイクスピアは ノー・スペア あの方に身がわりは いないのさ
もしもシェイクスピアがいなかったら 女は弱い、などという あの誤解は生まれなかっただろう
もしもシェイクスピアがいなかったら バーンシュタインはウェストサイドを とても作曲できなかっただろう
そうなりゃ「ツーナイト、ツーナイト、………………ツーナイト」というヒット曲も生まれなかったろう
もしもシェイクスピアがいなかったら これから始まるはずの このお芝居もここでおしまいさ
シェイクスピアはドル箱 金の蔓 あの方がいるかぎり 金には困らぬ
シェイクスピアは不動産 親の脛 あの方がいるかぎり われらは安泰
シェイクスピアは ノー・スペア あの方に身がわりは いないのさ
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