金蘭千里50式

2015.04.11

金蘭千里学園50周年特設サイト

「金蘭50式」は、50周年を迎える金蘭千里中学校・高等学校の「今」をお伝えする特設サイトです。一年にわたり、様々な視点からのコンテンツを50個ずつ発信して、金蘭千里の姿を描き出します。

最新の記事

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こんにちは、金蘭千里中学校・高等学校です。

毎週金曜日は、「金蘭50年」と題して、金蘭千里のこれまでの歩みをご紹介しています。

1979(昭和54)年度は、創立15年めです。
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年2回発行される「学校だより」には、学校長のことばが巻頭に記されます。
画像は、第15号に掲載された竹内校長先生の文章です。
15年間の学校の様子や、
13回の卒業式により2563名の卒業生(男子1771名,女子792名)を送り出したことなどが綴られています。
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同巻の「学校だより」には、成績評価法について説明する記事もありました。
20分テストは10点満点の絶対評価、
学期末成績はクラス単位で相対評価が行われる、という内容になっています。
生徒数も900名前後で推移するようになりましたが、
住所分布をみると、大阪市や吹田市、豊中市など本校の近隣市町村だけでなく、
尼崎市や川西市、宝塚市など兵庫県の市町村から通う生徒が増大しています。

私の母親は医師だ。私は負けず嫌いなので、物心ついた頃からずっと母親よりも優しくて優秀な医師になりたいと思っていた。

幼稚園年長の秋、私立の小学校を受験したのは、そこが進学校だったからだ。見事合格を果たし、迷わず入学した。入学当初は、医師になるにはすごく勉強していい学校に行かないといけないんだ、と漠然と思っていただけだったが、4年生になって塾に通い始めてから中学受験を本格的に意識し始めた。最初は気楽に通っていた塾もだんだん時間が長くなり、6年生の3学期にもなると受験勉強で学校を休む人も多かったが、学校の授業でも中学入試の過去問を扱っていて、私は学校と塾を両立させた。そして、塾と学校の先生の応援もあり、この金蘭千里に合格することができた。

中学入学当初は、初めての電車通学など不安も多かったが、友達ができ、学校生活に慣れてくると楽しめるようになった。1年生の頃は成績もいまいちで伸び悩んでいたが、「書いて覚える」という母親の助言もあり、2年生の頃にはかなり成績が上がった。今も頑張って更に上を目指して努力しているつもりだ。

高校生になったら理系、文系の選択があるが、医師志望の私は迷わず理系を選ぶつもりだ。今以上に頑張って医学部に合格し、母親よりも優しく優秀な医師になれたら、これ以上嬉しいことはない。

中三6  N.K

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『原発を考える50話』  西尾漠

図書室で本棚を眺めていてタイトルが目に留まりました。東北の震災について書かれているのかと思い手に取ると、意外にも古い本で1996年に発行されたものでした。書中ではチェルノブイリの事故の概要、原子力発電の構造と日本の現状、原発との共存について考察し、原発が抱える問題を提起しています。

20年近くも前から原子力の制御の難しさや実際起こっている事故を認識していながらも、結局は福島の爆発に至り現在も収束してはいない状況を考えると、自分自身にも降りかかる大きな問題としてこれからのエネルギーの在り方を考えなければならないと実感させられます。本書は脱原発の視点で書かれたものではあると思いますが、原発存続の現在において批判的な視点から眺める必要があると思いました。

分かりやすく書かれており、中学生でも理解できると思います。身近なエネルギー問題や環境問題を考えるきっかけとしてこの本をお薦めします。

「和の文化に触れて」

国語課教諭、茶道部顧問  池田 美和

数え年七歳の六月六日から十五年間、日本舞踊を習っていました。流派は山村流。今は亡き師匠には文字通り手取り足取りの指導をいただき、大変お世話になりました。稽古は一ヶ月に六日間連続で、常に師匠と一対一。緊張感たっぷりに過ごしたあの時間と空間がとても懐かしく、心地よかったことが思い出されます。

稽古で学んだのは、舞の技術的なこと、例えば身のこなしや間(ま)のとり方、体の隅々にまで、そして手に持つ道具の末端にまで神経を行き届かせることなど。しかしそれだけではありません。礼儀や人との接し方も学びました。兄弟弟子は年齢も性別もさまざまで、幼い子供や学生、会社経営者や落語家、芸者さんなどもいらっしゃいました。おかげで、知らず知らずのうちに年齢性別に拘らずいろいろな人と進んでコミュニケーションをとることが当たり前になっていったように思います。また一方では、集中力や観察力、一人で舞台に立つ度胸なども少しは身についたのかもしれません。

こうして振り返ってみると、入門してわずかな間のことでしたが、日本舞踊での経験は、私という人間の根幹の部分を形成するのに大きく関わっていたように思われます。

日本舞踊をやめて二十年以上が経ち、今年度から始まる茶道部の顧問を務めることになりました。ほとんど初心者といっていい私は、身の引き締まるような思いがし、また、再び和の文化に触れる機会を与えていただいたという大きな喜びも感じています。茶道は和の文化の集大成といわれるものであり、「究める」などと軽々しく口にすることなど到底できません。今はただ、日本舞踊で学んだことも活かしつつ、生徒と一緒に私なりにこの道を深め楽しんで、これからの人生を少しずつでも豊かなものにしていきたいと思うばかりです。

 

こんにちは、金蘭千里中学校・高等学校です。

毎週金曜日は、「金蘭50年」と題して、金蘭千里のこれまでの歩みをご紹介しています。

1978(昭和53)年度は、創立14年めです。

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「夢」

私が金蘭千里に入学して驚いたこと、それは沢山の方から物事を学ぶ機会が多いということです。例えば、道徳の授業では、今自分達はどのような時間の使い方をして過ごせばいいのかというお話を聞かせてくださり、普段の授業中では、大学時代の海外留学の体験談なども聞かせてくださいます。また、本校の卒業生の方々や外務省の方が講演会に来てくださり、将来の夢の見つけ方なども教えていただきました。

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「紙メディアの楽園 NIPPON」

国語科教諭・演劇部顧問 堀友信

幼い頃、よく近くの図書館に通った。
かこさとしの絵本は怖いが、何度も読み返した。
『はだしのゲン』の描く世界に息を吞んだが、全巻揃った棚につい足を運んでしまう。
ズッコケ三人組シリーズと星新一に多くの少年宜しくハマり、
文字を追うのに疲れたら、自宅にある小学館の学習漫画『少年少女日本の歴史』をすり切れるほど読んだ。あおむら純先生の際だった画力(登場人物すべてに魂が宿っている、シンプルで正確かつ温かな描線、モブシーンでも一切手を抜かない)が、歴史に自然と誘ってくれた。実家の営む喫茶店では、黄金期の少年ジャンプ・マガジン・サンデーを読むという、今考えるととても贅沢な環境にあった。

いつも本と漫画が側にあった。
漫画を通して伝記を読み、歴史を知った。

手塚治虫先生によって芸術へと昇華した日本の漫画(そういう意味では日本の漫画はもはや「漫」画ではない)は、画と文字のハイブリッドで情報を伝えるメディアである。漫画家は、小説家のようにストーリーを構成し、画家のようにイメージをすべて描く必要がある。映画が音楽と映像の融合で表現されているように、漫画も一切のごまかしが効かない総合芸術だ。

中高時代も図書館通いは続いた。
映画や音楽、美術に関心が広がったが、映画館と美術館に行くとお小遣いがあっという間に消えていくので、図書館でビデオやCDをよく借りた。

それでも月刊誌『広告批評』と季刊映画雑誌『CUT』は発売日に必ず買った。
批評に飢えていたからだ。
映画や本の感想を友人と述べ合っても、お互い底が浅く、作品を鑑賞して生まれた衝撃や感慨の欠片を言語化できず、モヤモヤが残るばかりだった。

インターネットのない当時、批評空間を持てなかった自分を救ってくれたのが本や雑誌だった。プロの批評家による鋭い分析や考察に、大いに目を開かされ、多様な観点を教わり、作品の感動を共有しているような充足感があった。

批評を読むことで、一つの作品を二度、三度と味わえる喜びを知った。
不朽の名作『となりのトトロ』を批評した川喜田八潮先生の著作と出会ったのもこの頃だ。
図書館のビデオやCDを通して芸術作品に触れ、本や雑誌を通して作品批評に触れた十代だった。

大学以降は小銭を稼げるようになったので本屋通いが習慣に。
タルコフスキー監督の映画に衝撃を受け、高野文子先生の漫画と出会えたことにただ幸せを感じた。その素晴らしさを、芸術評論誌『ユリイカ』は丁寧に掬い取ってくれた。

読む雑誌は年を経て変わり、おじさんが読む雑誌と思っていた週刊文春やダイヤモンドを手に取っている自分に驚く。もうおじさんになっていたのだ。

おじさんは小金を持っている。
文庫本をいつも鞄に忍ばせているのに、仕事帰りにふらふらと本屋に寄って、本や雑誌の間を徘徊し、オトナ買い。

なんて贅沢なひととき…

自宅には、こちらの読むスピードに追いつけず、主人に読まれる日を待つ積ん読状態の書籍が増えていく。
それでいいのだ。
いつか絶対読むのだから。
しばらく自宅で寝かせて、時機を見ているのだから。

こんな道楽が今の仕事に結びついている。
批評精神を活かせる仕事に就けてよかった。多謝。