金蘭千里50式

2018.01.01

金蘭千里学園50周年特設サイト

金蘭千里中学校・高等学校が2015年の50周年を記念して制作した、リレーブログ形式のコラム集です。一年にわたり、様々な視点からのコンテンツを50個ずつ発信して、金蘭千里の50周年時の姿を描き出しました。

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「紙メディアの楽園 NIPPON」

国語科教諭・演劇部顧問 堀友信

幼い頃、よく近くの図書館に通った。
かこさとしの絵本は怖いが、何度も読み返した。
『はだしのゲン』の描く世界に息を吞んだが、全巻揃った棚につい足を運んでしまう。
ズッコケ三人組シリーズと星新一に多くの少年宜しくハマり、
文字を追うのに疲れたら、自宅にある小学館の学習漫画『少年少女日本の歴史』をすり切れるほど読んだ。あおむら純先生の際だった画力(登場人物すべてに魂が宿っている、シンプルで正確かつ温かな描線、モブシーンでも一切手を抜かない)が、歴史に自然と誘ってくれた。実家の営む喫茶店では、黄金期の少年ジャンプ・マガジン・サンデーを読むという、今考えるととても贅沢な環境にあった。

いつも本と漫画が側にあった。
漫画を通して伝記を読み、歴史を知った。

手塚治虫先生によって芸術へと昇華した日本の漫画(そういう意味では日本の漫画はもはや「漫」画ではない)は、画と文字のハイブリッドで情報を伝えるメディアである。漫画家は、小説家のようにストーリーを構成し、画家のようにイメージをすべて描く必要がある。映画が音楽と映像の融合で表現されているように、漫画も一切のごまかしが効かない総合芸術だ。

中高時代も図書館通いは続いた。
映画や音楽、美術に関心が広がったが、映画館と美術館に行くとお小遣いがあっという間に消えていくので、図書館でビデオやCDをよく借りた。

それでも月刊誌『広告批評』と季刊映画雑誌『CUT』は発売日に必ず買った。
批評に飢えていたからだ。
映画や本の感想を友人と述べ合っても、お互い底が浅く、作品を鑑賞して生まれた衝撃や感慨の欠片を言語化できず、モヤモヤが残るばかりだった。

インターネットのない当時、批評空間を持てなかった自分を救ってくれたのが本や雑誌だった。プロの批評家による鋭い分析や考察に、大いに目を開かされ、多様な観点を教わり、作品の感動を共有しているような充足感があった。

批評を読むことで、一つの作品を二度、三度と味わえる喜びを知った。
不朽の名作『となりのトトロ』を批評した川喜田八潮先生の著作と出会ったのもこの頃だ。
図書館のビデオやCDを通して芸術作品に触れ、本や雑誌を通して作品批評に触れた十代だった。

大学以降は小銭を稼げるようになったので本屋通いが習慣に。
タルコフスキー監督の映画に衝撃を受け、高野文子先生の漫画と出会えたことにただ幸せを感じた。その素晴らしさを、芸術評論誌『ユリイカ』は丁寧に掬い取ってくれた。

読む雑誌は年を経て変わり、おじさんが読む雑誌と思っていた週刊文春やダイヤモンドを手に取っている自分に驚く。もうおじさんになっていたのだ。

おじさんは小金を持っている。
文庫本をいつも鞄に忍ばせているのに、仕事帰りにふらふらと本屋に寄って、本や雑誌の間を徘徊し、オトナ買い。

なんて贅沢なひととき…

自宅には、こちらの読むスピードに追いつけず、主人に読まれる日を待つ積ん読状態の書籍が増えていく。
それでいいのだ。
いつか絶対読むのだから。
しばらく自宅で寝かせて、時機を見ているのだから。

こんな道楽が今の仕事に結びついている。
批評精神を活かせる仕事に就けてよかった。多謝。