教壇に立ちはじめて36年、究めたものがあるかと言えば、たいしたものはありません。本業の英語指導はいまだ試行錯誤の連続ですし、翻訳書をいくつか残してはいますが、究めたというのも烏滸がましい。趣味なら甲虫研究、アカペラコーラス、DM(PC音源を使った音楽制作)などいくつかあるものの、これも誇れるレベルにはほど遠くて……。
ただ、やはり素人芸ではありますが、こんなものもたまに書いたりしています。私的な想いをひねくれた表現で描きなぐる「詩のようなもの」です。
儀式
緩慢な赤星の墜ちる頃
遠い流刑の島を出て
対向する海流の背を辿り
ユリシーズの古歌など吟じつつ
蘆の浮く運河へとやがて分け入る
この罪人は公職なる輩
亀と散歩する主婦を横目に追い
頸環のない黒い不在を蹴散らして
蒼白の闇に心の鉛毒を融かす それから
煉瓦積みの濡れ段に舫いを繋ぎ
花輪の懸かる鳥居をくぐるなり
跳びかかってくる耳ざとい短気者
厨房にはまめまめしい天平人の妻
二人の息子が御伽草子で盛り上がるなか
彩々の食卓からふと目を逸らしたその刹那
端なくも気付いてしまう
不吉に広大な掃き出し窓の向こう
露台に下がる雨合羽の陰に
干涸らびた希望さながら
小さな幽霊が二つほど隠れているのを
庭の草叢を蜥蜴が走り
夜と昼が反転する無音の一刻
止まった風に蚊遣火の寄り添うこの窓辺
見咎めた憂いを危険な瞼で殺す
今宵もまた執行される 終わりなき異言の儀式
自宅と職場を行き来する日常をJ。ジョイス風に「意識の流れ」で綴ると、こんな具合になりました。
普段は何もしないのですが、ふと何か無性に勝手なことを書きたくなる。でも出来上がったものは若い時代に書いたものと五十歩百歩、いっこうに進歩も成熟もしていない。「何か究める」とは「一途に継続する」ことだと、つくづく感じます。